「安心しろ娘」

ざざざと猫が走る。
枝を踏んで、葉を裂いて。
幾千という猫が行く。

(走る。走る。走る)

「――我は女は食わぬ。
 女は好むがな。わずらわしいことに食えぬのよ」

(どこへ?)

闇に蠢く獣の波。
闇に轟く獣の声。

顎を掴まれた。
そのまま、くいっと上向かされる。
にたりと笑った口が見えた。
めぐれあがった唇の向こうの犬歯。
肉の跡の残る牙。
獣だと、そう思う。
それなのに、何故か恐怖はなかった。

「―――のう、娘?」

その時、闇が動いた。
異様な気配に背が震える。
ざわざわと。
ざわざわと。
山の端から何かが迫り来る。
獣だけだったこの場に。
別の、何かが。

獣の群れが駆け下りる風なら。
それは、湧き出た地鳴りだった。

獣の群れが吼える。
闇の塊が喚く。
幾千という羽音。
山の端から湧き出したもう一つの勢力。
それは。

(あ、ああ――――!)

「お主、怯えぬのぅ?」

―――――全て、蟲。

蟲と獣がぶつかった。
悲鳴と血と粘液が飛ぶ。
互いが互いを飲み込んでいく。
千切れる肉と。
砕ける体。
その二つが飛び散り、混ざる。
男が笑った。
堂々と広げられた腕。
狂騒に酔ったように、笑った。

「よいなぁ、よいなぁ、実によい。
 のぅ、娘―――あぁ、よいッ! 実に、よいッ!」

男は歓喜に耐えぬように絶叫した。
その背に、蟲が飛来するのが見えた。
虹彩の浮かんだ羽を閃かせた、蝉。
飛びかかったそれがぶつかる寸前、男の背に猫が飛び出した。

本来は弱い蝉の羽。
それがぶつかった瞬間、ごろりと、落ちた。
肉を裂かれ骨を折られた猫の首。
舌と牙を出したままの首が落下する。
白の毛が赤く染まる。
だくだくと零れ落ちる血潮を浴びながら、男は笑った。
無造作に、振り向きもせずに手を伸ばす。
ぱしり、と。
その手の平に蝉がぶつかる。
ぐしゃりと容易くそれは潰れた。
しかし、羽が触れた手の平は裂ける。
ざくりと裂けた肉。
骨が覗くほどに深い傷。
それでも、男は笑い続ける。
痛みを感じないのか。
痛みさえ愉快なのか。

そして、突然蟲の残骸を投げ捨てた。
そのまま手を翻し、猫の首を掴む。
裂けた手の平に猫の頭。
狐の面が持ち上げられる。
べろりと、分厚い舌が首から滴る血を舐めとった。
長い犬歯が、同胞のはずの猫の頭を噛み潰す。
骨の砕ける音。
美味そうに脳漿を啜る音。
半分になった顔から飛び出した目玉を、飴のように掬い取る。
ごくりと喉仏が動いた。
血に塗れた口から、肉の匂いがした。

「よい肉だ。よい血だ。大儀であった」

男は笑う。
未だ地は轟いている。
獣と蟲の戦いの音。

(ありえない、ありえない)

嬉しげな、笑い声。

(―――――ありえない、のに)

そこで、ぐらりと。
意識が途切れた。