「―――父と母は、大変不気味に思ったそうです。
 けれども、何故かそれ以来、他の名がぱったりと思いつかなくなったと言います。
 出生を届ける際、他の名を書こうとしても、どうしても手が動かなかったと。
 仕方なく、そこに書かれた名を付けたと、そう言っていました。
 それが、何か『良き者』からの天啓だったのだと信じて。
 それが――僕の周りで起こった最初の怪異でした。
 今考えると、あれは『異形』が付けたものなのでしょうね。
 ………名付け親は誰なのか。
 今のところ、誰も名乗り出て下さらないので、分かりませんが」

夜狐はそう言うと、喉が渇いたのか酒を口に含んだ。
けれども、逆に喉が焼けたのかグラスを放す。
新しい酒を啜りながら、恋女は納得したように言った。

「なるほどね。君の名は異形が付けたのか。何とも羨ましい話だね。
 君に名を付けたかった異形は山ほどいただろうに」

何処となく苛立たしげな口調だった。
彼女の珍しい様子に、夜狐は首を傾げる。

「そうですか?」

「その通りさ。名はその者の本質を顕す。それに――単純に、羨ましいんだよ。
 絶対に消えない噛み跡を残すようなものだ。
 君に自身を残せる唯一の機会だったと言うのに。
 他の異形達から見たら、名付け親を殺しても足りないだろう。
 今こうして傍にいられる僕だって、嫉妬するぐらいだ」

一度歯噛みし、恋女はゆるく首を回した。
気持ちを切り替えるためか酒を飲み干す。
それから、濡れた唇を舐めると考え深気に言った。

「けれども、おかしな話だね。君がまだ明確な肉の形すら取っていない頃。
 まだ人の形すら知らない卵だった頃に、名を渡すなんて。
 その異形は、それほど君に自身を刻みたかったらしい」

そう言うと、そっと酒気を吐いた。
暗い声が、呆然と語る。


「一体、誰なんだろうね。それほど君に執着した異形は」


ふっと遠い目で、恋女は夜狐の名呟き始めた。
歌を歌うように戯れる様に声が響く。


「や、こ。やこ――夜狐、夜子」


夜の、子供。夜の狐。



「―――――――――――夜蠱か」



夜の――蟲。



「どうかしましたか?」

ふと恐ろしく暗い目をした恋女に夜狐が聞いた。
闇の向こうに、一瞬異形の光が覗く。
それを指摘され、恋女はふっと笑った。
その顔には、さっきの陰りは欠片もない。
からりと、乾いたグラスを振った。

「いや、なんでもないよ。それよりも乾杯しよう。
 考えてみれば、僕達はいつも勝手に飲むばかりだしね。
 たまには、人間のように何かを祝うのも悪くない」

「何をですか?」

「さあね、これから考えよう。
 そうだね――僕達の出会いなんて丁度いいんじゃないかな」

ふざけた口調だったが、夜狐は特に否定はしなかった。
応えるように、恋女の空のグラスに酒を注ぐ。
それを嬉しそうに受けながら、恋女は呟いた。



「まさか――――ね」



グラスを掲げる。
甲高いガラスの音に、鐘の音が重なり――消えた。