ボーンと柱時計の音が鳴った。
無数の針が時を刻む音がする。
それなのに、部屋の中は静かだった。
時間を忘れたかのような怠惰な空気が流れている。

夜狐は、何時ものように椅子に座って恋女を待っていた。
猫足の椅子は、体を動かせば揺れる。
手を出せば、紅色の光に濡れた手が映った。
紅に染め上げられた部屋は、胎盤に似ている。
歪な安心感があった。

やがて、恋女が奥から酒の瓶を持って現れた。
先日はワイン、その前はブランデー。
そして、今日は日本酒だった。
奥の部屋がどうなっているのか、夜狐は知らない。
彼が知っているのはこの一部屋だけだった。
酒瓶が並んでいるのか、何もない虚空から、魔術師のように瓶を引き出すのか。

「待たせたね。今日もいい酒だよ――君がこれを飲むのは初めてだったかな?」

恋女は酒瓶を勢い良く開け、傾けた。
もう片手に持ったグラスの中に注ぐ。
深い紅色が似合いそうな、繊細な作りのグラス。
何ともちぐはぐな光景だが、躊躇う様子は無かった。
そのまま、夜狐に差し出す。
夜狐は丁寧に礼を言うと、そのまま煽った。
一口含み、僅かに眉を潜める。

「―――辛いですね」
「おや、そうかい。もしかして、君は甘い方が好きかな?」

何故か嬉しそうに恋女はそう言った。
手の中のグラスを回しながら、夜狐はそれに応える。

「いえ、嫌いな味ではありません。ただ――いつもより喉が焼けます」
「なるほどなるほど。この感触を楽しむには、君はまだ若いか。
 それは良いことを聞いた」

笑いを含んだ声で、恋女は自分の分の酒を注いだ。
夜狐に向かって掲げ、からからと笑う。

「………楽しそうですね」

「そう、楽しいよ。君には及びもつかないことだろうがね。
 君がまだ子供なことが分かる度―――僕は嬉しいんだ」

心の底から嬉しそうに恋女は笑う。
不思議そうに夜狐は尋ねた。

「何故ですか?」

「決まっているさ――僕のかわいい子。
 君が子供な限り、君は何処へも行かないし、何処へも行けない。
 獣でも人間でも同じさ。幼い者は、巣からは出られない。
 実に嘆かわしいが、喜ばしいことだよ」

「………」

「もしかして気を悪くしたかい?すまないね。悪い意味ではないんだ。
 つまり――君が子供でいてくれる限り。
 僕は君とまだこうして酒を飲めるということだよ」

恋女はまるで何かに感謝するかのようにグラスを掲げた。
紅い光が酒の上で揺れる。
薫りはまるで別のものだが、そうすると中身はワインのように見えた。
血塗れた色が美しく揺れる。
そうして、強い酒を一息の元に飲み干した。
夜狐も、少し嫌そうな顔で一気に杯を空けた。
互いに、二杯目は注がず、机の上に置く。
まるで酔ったように、恋女は椅子にしなだれかかった。
夜狐は、真っ直ぐに伸ばした背を崩さない。
その様子を見て、恋女は寂しげに笑った。
そして、ふと思いついたかのように、呟く。

「そういえば、どうして、君は夜狐なんて名前になったんだい?」

唐突な問いかけに、夜狐は驚いた顔をした。
尋ねた当の恋女も、自身の言葉に驚いたのか幾度か瞬きをする。
それから、頷いた。
何となく口にした一言のようだったが、妙に腑に落ちたらしい。
改めて夜狐に尋ねる。

「うん――そうだ。そういえば、ずっと聞きたかったんだよ。
 君の両親は、君が君であることを快く思っていないんだろう?
 その異形に愛される性質を。
 その類稀なる魂の形を。
 それなのに、何故そんな名をつけたんだい?」

「………気になりますか?」

「当たり前さ。随分と不吉な名前だ」

夜に狐――なんてね。

そう言うと、恋女はまた笑った。
クスクスと忍び笑いが続く。
無邪気な声に、悪意はない。
夜狐は、特に気を悪くした様子も見せず、頷いた。


「そうですね。母に、一度だけ聞いたことがあります」


そして――語りだした。