泣きながら、ぶつかってきた体を抱きとめる。
逃げることも、避けることもしなかった。
灼熱が腹で弾けた。信じられないような痛みが、全身を突き抜ける。
叫びたかった。その場に崩れ落ち、腹を抱えて転げ周りたかった。
本能的な恐怖が込み上げる。今すぐ走って救急車を呼びたかった。
けれども、気力だけで踏み留まり、痛みを噛み潰す。
唇の間から血が垂れた。足が無様に震えたが、何とかその場に立ち尽くす。

ここで、一歩でも後ろに下がれば、もうこの少女は救えない。
少しでも逃げてしまえば、きっともう二度と手は届かない。
そう思った。確信があった。
だから、耐えた。痛みなど、無視する。
脳が焼け付くが、無理やり感じていない振りをする。
腹に感じる痛みなど、どうでもいい。
そんなもの気にする暇があったら、目の前の少女に優しい言葉の一つでもかけるべきだ。


自分が、死んでしまっても、それでいい。
例え死んでも、伝えなければならなかった。


小さな背中を抱き締める。
なるべく体温が伝わることを祈る。
そして、今感じている恐怖や痛み等、何一つとして彼女に伝わらないことを願う。
世界でたった一人のように、震える体をそっと、包み込む。



ただ優しく、優しく。



腹に――包丁が刺さったまま。



「どう、して……」


小さく、彼女が呟いた。
柄を持った手が怯えるようにカタカタと震えている。
その背をゆっくりと撫でた。
ついさっきまで狂気に溢れていた目が、今は驚愕に見開かれていた。
そのことに、僅かに安心する。
ため息を吐き、胃の中身が全て零れ落ちるような痛みをやり過ごす。
柔らかく、長い髪に慈しむように触れる。
まだ柄を持ったままの彼女は、このまま包丁を押し込む気かも知れない。
そうすれば、自分は確実に死ぬだろう。
けれども、それでも良かった。


三年前のあの事故以来。
自分は、ずっと死んでいたのだから。
彼女が、来るまで。


「………悪かった」
「………えっ?」
「気づいてっ、やれなくて……悪かった」


彼女の不安を。彼女の孤独を。彼女の寂しさを。
自分は気づけなかった。
だから、こんな風になるまで彼女を追い込んでしまった。
一人になりたくないと言って、包丁を握ってしまう程に。
少女は哀れだった。
それを振るったが最後、本当に一人になってしまうことに気づいていない。
殺人は、人を自分のものに出来る手段などではけっしてない。
一緒に買い物をしたり、料理をしたり。
そんな楽しさを、二度と味わえなくなるというのに。
そんな場所にまで、自分が彼女を追い込んでしまった。


「もう、不安がらなくていい。寂しがらなくても、大丈夫だ」


小さな少女に告げる。
必死になって、掠れそうな言葉を紡ぐ。
けれども、きりえはまるで笑うような息を漏らした。
さっきより手が激しく震える。
その度に、抉られる傷口から夥しい血が流れ落ちた。


「な、何言ってるんですか。優さん。何言ってッ!?
 今包丁が刺さってるんですよ。お腹に、包丁が。
 わ、私、優さんを殺すつもりだったんですよ。それなのに、馬鹿言わないで下さい」

何処か必死さが滲む声に無言で応える。
そっと手を動かすと、小さな頭に手をやった。
びくりと彼女は激しく震えた。その髪を撫でる。
丁寧に、丁寧に。小さい子を慰めるように。
何時か、何処かで。
その頭を撫でたときのように。



(「君が笑っていてくれると、俺は嬉しい」)



そう、あの時。
熊を一体買って手渡したとき。彼女が始めて不安を滲ませたときに。
もっとしっかりと、抱き締めてやれればよかったのだ。
何も心配することはないと。
そう言えばよかった。


「大丈夫だ。全部、全部………」


彼女が来て初めて、自分は許された気がした。
生きていてもいいのだと。
そう言って貰えた気がしたのだ。

だから、殺されかけても構わなかった。
包丁で刺されても。彼女の幸せを願うことが出来た。
自分には――彼女が来るまで何もなかったから。
何もかも。大切なことを、忘れていたから。



遠い昔。大切な人達と、楽しい時間を過ごしたことさえ。



「俺が、許すから」



だから、どうか。



「ずっと、一緒にいよう」



笑っていて欲しかった。



「ふぁっ………」


一瞬、きりえは顔を歪めた。
みるみるうちに、その目に涙が溜まる。
柄から手が離れた。
震える手が、血塗れの手が、どうすればいいのか分からないというように彷徨った。
ふらふらと、まるで求めるように差し出される。

抱き締めたまま、それに頷いた。
ぽっかりと空になった手に、そっと頬を寄せる。
汚れた手は、優しいその感触に触れ。
それから。



まるで、父親に甘える子供のように、彼女は優に抱きついた。



子供のような泣き声が響く。
まるで縋るように抱きついた背をゆっくりと撫ぜる。
離れかけていた手を、もう一度握ることが出来たことに安堵する。




やっとその背を、抱き締められたことに。