「これで、ずっとずっと一緒ですから」


柔らかな微笑と一緒に。


腹にナイフが突き立てられた。


激痛と共に、腹を裂かれる。
肉と、皮膚がためらいなく破かれていく。
まるでぬいぐるいのファスナーを引いて中身を出すかのような気軽さ。
臍の下まで切り終わり、勢いよくナイフが引き抜かれた。
めくれあがって明らかになった中身が、血と共に床に飛び散った。
腹圧で飛び出した内臓が床に落ちる。
腹の中が空になる怖気。
魚のように全身が跳ねた。
視覚が失われている中、触覚と苦痛だけで知るそれは更に恐ろしかった。
腹が、肉が。
潰れた喉から声は出ない。
見えない目から、粘性の涙が次々と溢れ出しては零れた。
逃げることすらできずに手足を震わせる。
生きたまま裂かれる魚を思い出す。
内臓を引きずり出されて、身を痙攣させるそれを。

不意に唇が、傷の端に当てられた。
刃物の鋭さとも違う、皮膚が裂かれる痛みとも違う。
柔らかいそれが、まるで癒すように肌に触れる。
いたわるような口付け。
そして、次の瞬間、内臓の一部ごと血を吸われた。


「――――――――ッ」

口の中に肉体の一部が吸いこまれる。
それが血管か腸か考えたくもない。
ぶちぶちという音と共に、種類の違う痛みが背骨を駆け上がる。
ごりごりと歯で噛み潰される感触。
そしてぶちりという音と共に一部が千切られた。
ぽたりと、唇から血を垂らして彼女が笑う。


「ふふっ―――ふふっ」


まるで天使のような笑い声。
見えない目に、唯一残された彼女の笑顔が蘇った。
真っ白で、清冽な無垢。
狂う。狂う。
このままでは狂ってしまう。
ただここから逃げ出したかった。
動かない手を床に突き立てる。
唯一動く指が、まるで縫い止められた蜘蛛のように地面を貼った。
爪が割れ、指先が裂ける。
その動きが緩慢になるに連れて、痛みが少しずつ消失し始めた。
痛みが、恐怖が和らぎ、ゆっくりと、脳に霞がかかり始める。
それが、泣きたくなるほどありがたかった。

また、口付けが落ちる。
柔らかい唇が肉を食み、内臓の一部が持っていかれる。
けれども、痛みは伴わない。
ブチブチと肉の千切れる音を、他人事のように聞いた。


「ねぇ、優さん」


彼女が、自分を呼ぶ。
その声を聞いたとき、違和感があった。
脳を狂わす激痛が消えたためか。
不意に、昔見た情景を思い出した。
ずっと忘れていた。
菓子の箱を泣きそうな顔で握り締める姿。
もう百年も昔のことのように思えた。
劣化したフィルムの中に残された映像のように、霞んだ情景。
どうして優しくしてくれるのかと、そう言って泣く少女。

あるいは、雨の中で。
世界で一人きりのように泣いていた姿。

目の中に刻まれた彼女の笑顔。
もう見たくないと何度も思ったのに消えなかったそれが。
ふっといつか見た泣き顔に入れ替わった。


泣いている。ないている。ナイテイル。

ずっと。ずっと。


(ずっと、ずっと一緒ですよね)


(一人は、嫌です)


ひとりぼっちは、こわいんです。


あぁ、そうか―――――――――


そっと手を伸ばす。
血に塗れた指先が、想像上の頬に触れた。
また内蔵を食んでいた唇がふっと離れた。
血を零しながら笑い声を漏らす。
くすぐったさに鳴く、子猫のように。
触れた指先が、血で滑った。
彼女は泣いていない。
泣いているわけがない。
そんなこと知っていた。
けれど。


もう恐怖はない。もう痛みもない。
暗く狭い世界に、二人きりでいる気がする。


腹の中で踊る指。
内臓で遊ぶ子供。


今はただ、彼女のことが哀れだった。


(―――――きりえ)


笑っている。わらっている。

泣いている。ないている。


(―――――俺がいなくなったら、君は)


この子は、どうするんだろう。

狂った。この子は。


「これで、これでこれでずっと一緒ですよ?
 ねぇ、優さん。一緒ですよね。ずっとずっと一緒ですよね」


はしゃいだ声が耳に届く。
それは間違いだと、そう言う事すらできない。
全てが遠くなる。
彼女を置いて、世界から離れていく。
頬を滑った指が落ちた。
憎しみはない。恨みもない。痛みもない。恐怖もない。
今まで、感じずにはいられなかった全てがない。



ただ―――――――。



さようなら。

どうかしあわせに。



祈るように。
それだけを思った。