「優さん、ご飯ですよー」
寝転がったまま、それを聞いた。
潰れた視界は灰色にぼやけたまま、何も映らない。
背中で縛られた手には指が無く、そのせいで起き上がることすら出来なかった。
前に脱走しようとしたとき、泣きながら彼女に切断されたものだ。
一体どれくらい前のことだったか覚えていない。
思い出そうとしても、その時の音や痛みは脳をぐちゃぐちゃに掻き回してきて、判然としない。
自分の泣き声と、彼女の泣き声。指の痛みと熱。
体が欠けていく底なしの絶望だけが、影のように張り付いている。
もう何をする気力も無かった。
ただ、寝転がったまま彼女が嬉しげに食事を運ぶ音を聞いた。
食欲など欠片も無いのに、鼻は今日のメニューが何なのかを自動的に伝えてくる。
クリームと野菜の匂い。濃厚な芳香はシチューのものだった。
食べ物の匂いを嗅ぐだけで吐き気が込み上げる。
僅かに胃を庇うように体を丸めた。
しかし、一時食事を放棄した時のことは、思い出したくも無い。
どうして食べてくれないんですか?
私は優さんのことが心配なんですよ。心配で心配で心配で心配でだから……。
だから、それから後、何があった?
そこで、脳裏が真っ赤に焼き尽くされる。
何を、されたのか。
分かることはたった一つだった。
今の自分には、生きることを拒否することすら、許されていない。
「はい、優さん。ご飯ですよー。今日はシチューです。
美味しく出来るように、お昼から頑張って煮込みました」
後ろ手に縛られたまま、転がされ、食べやすい体勢を取らされる。
顎の下に優しくナプキンを添えられた。
無気力に開いた口の中に、シチューを入れられる。
親鳥が子供に餌を運ぶようだった。
スプーンで飲み込むのに無理ない量を差し出され、ゆっくりと落とされる。
まだ温かいそれがじわじわと舌の上で広がる。
ガチリと噛んだ瞬間。
違和感があった。
シチューに何かが、入っていた。
細長い、異様な形をしているが、人参ではない。
柔らかく煮込まれたそれは、舌で触れると表面が柔らかく崩れた。
丁寧に煮込まれた肉だ。
少し歯を立てるだけでもろもろと表面が崩れる。
濃厚なその味が口の中に広がった。
剥がれた肉が、舌の上に落ち、シチューと混ざって今まで味わったことの無い旨味を伝えてくる。
食べたことのない味。
確かめたくない。嫌な予感がする。
そう思いながらも、口内は突然侵入した異物を確かめようと動いていた。
なるべく形を崩さないよう、舌でゆっくりと撫ぜた。
少しずつ、少しずつ。骨と一緒に煮込まれたそれの輪郭を確かめる。
第一間接、第二間接。先端に行くほど細くなる。
形を確かめると、先端の細い部分に何かが触れた。
他より、堅い。骨のような。薄く、平たい何か。
これ、は。
唇が勝手に弛緩した。中からシチューがどろどろとこぼれだす。
ぐっと喉が吐き気を訴えた。胃から胃液が競りあがり、食道を逆流した。
耐え切れず、中身を盛大に吐き出すと、撥ね散ったシチューが顔に掛かった。
ゴホゴホと吐き出しながら、上手く呼吸が出来ないことに怯える。
「ど、どうしたんですか? 優さん?」
きりえの慌てる声が聞こえた。
また何かされるのではないかと背筋が冷えた。
しかし、わざと吐き出したものではないと彼女にも分かったらしい。
調子を心配する声と共に、背中を何度も撫でられた。
労わる声が背に掛かる。
「どうしたんですか? 優さん、気持ち悪いんですか? だ、大丈夫ですか?」
それから、彼女は撒き散らされた吐しゃ物に視線を動かした、らしかった。
ん? と考え込む声と共に、シチューに指が触れる柔らかい音が聞こえた。
それから、ああ、と呟いた。
納得した声だった。
何に?
「あぁ、優さん。すみません。ごめんなさい。私の皿と優さんのお皿、間違えました」
びっくりしましたよね。と優しい声が慰めるように言う。
それに、頭が白く煮えた。
びっくりしましたよね。びっくりしましたよね。
その言葉が頭の中を反響する。
一体自分が何を食べたのか、気づきかけていた。
けれども、理解してはならなかった。考えてはならない。
その時こそ、理性が終わりを迎える気がする。
そう思ったのに、口が勝手に動き、尋ねていた。
「き、きききりえ……? こっ……これは?」
自分の声が、自然と哀願するような口調になっているのをぼんやりと聞いた。
すると、彼女はうっとりと応えた。
その顔には、きっと何時ものような愛らしい笑みが浮かんでいる。
目に焼き付けられた、天使のような笑みが。
「ちゃんと冷凍して取ってあるんです。
だって、勿体無いじゃないですか。せっかくの、大切なユウさんの一部なのに」
目の前に広がるシチューの残骸。潰れた目に、それは見えない。けれど、けれど。これは。
「美味しいですよ?」
俺の………指?
絶叫、した。