「ッ……う、あっ」
目を覚ますと、辺りは既に暗くなっていた。
まるで水に浸したような薄闇の中に、何もかもが沈んでいる。
目に映る景色は、見慣れたものだった。
自分はどうやら居間に横たわっているらしい。
一体、何があったのか、分からなかった。
気絶する前の記憶が、途絶えている。
起き上がろうとして、そこで全身が動かないことに気がついた。
まるで神経が全て切れてしまったかのようだった。
指一本動かせない。
驚愕する。軽くパニックに陥りながら、何とかして体を動かそうとした。
けれども、目の前に横たわる腕は、死肉の塊のように反応しない。
痛みがないだけで、四肢がバラバラになったかのようだった。
背筋が冷える。
普段意識せずに動かしているものが不可能になるのは、相当な恐怖だった。
どうなっているのか、まるで分からなかった。
不意に、気絶する直前、目の前に立っていた少女の存在を思い出した。
「きりえ……?」
辛うじて、唇は動いた。
か細い声が流れ出たことに酷くほっとする。
けれども、首から下は相変わらず動かなかった。
脊髄に押し当てられた何かと、全身に走った衝撃を思い出す。
そして、自分を酷く空っぽな目をして見つめていた少女のことを。
虚無を煮詰めたような目と、完全な無表情。
彼女の握っていた、無骨な黒い―――――――――
スタンガン?
そう思ったとき、何かが聞こえた。
カチ……カチッ。
機械的な音だった。
次いで、シュボッという音と共に、一瞬小さな灯りが点る。
それに、小さな少女の姿が照らされた。
柔らかな髪が、その横顔を覆っている。
硬い音は、どうやらライターの音らしかった。
危ないから触らないようにと言ったのに、少女はたどたどしい手つきで火を点している。
その上に、何かを翳していた。
目を凝らしても、よく分からない。
きりえ、何を……何をやっているんだ?
何を。
「あぁ、優さん起きたんですか?」
問いかけに応えるかのように、少女が顔を上げた。
にっこりと微笑む。
朝起きたときに自分を迎えてくれる愛らしい笑顔だった。
何時も通りの。
「きりえ、これは、これは一体……?」
「おはようございます。優さん」
そう言って、彼女はパチリとライターを閉じた。
同時に、もう片手に持った何かをすばやく振る。
ライターから離されたそれは、紅く染まり、直ぐに冷え、元の色を取り戻した。
けれども、それが何なのか理解できない。
何でそんなものを持っているのか。
何故、そんなものを炙っているのか。
呆然と見ていると、少女は無邪気に駆け寄ってきた
。
転んでしまいそうな小さな足取り。
何もかもが何時もどおりなのに、全てがおかしかった。
現実がそのまま数センチずれてしまったかのような歪な違和感。
そっと頬を撫でられた。
白い手が、顎の形を確かめるように、幾度も触れる。
愛しい者に触れるような、優しい手だった。
彼女は、心の底から、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
何時の日か、熊を買ってあげた日のことを思い出す。
この異様な状況ですらなければ、その顔が見れたことを嬉しく思えたに違いない。
けれども、逃避しようとする頭を、現実が無理やり引き止めた。
「きりえ、一体、何がどうなってるんだ? 一体、何を」
「あのですね、優さん。私ずっと考えたんです」
問いに、ずれた答えを彼女は返した。
微笑む顔を見上げると、焦点の何処かずれた瞳と会った。
うっとりと微笑んだまま、その唇から言葉が溢れ出す。
「私ね、怖かったんです。このまま優さんがどこかに行ってしまうんじゃないかって。
私は、また一人ぼっちになってしまうんじゃないかって優さんは優しいのに。
とてもとても優しい人なのに、私はずっとずっと不安で。
だから、考えたんです。優さんがどこかに行ってしまわないようにするには、どうしたらいいのかなって……。
だから、だから、ごめんなさい」
何時か見たのと同じ、悲しい顔を彼女は浮かべた。
泣きそうな、何かを不安がるようなそんな表情。
けれども、それは直ぐに掻き消える。
その後に浮かんだのは、あまりにも晴れやかな笑顔だった。
「私、今すごく嬉しいんです」
何が。
何故。
そう問いかけることは出来なかった。
頬を撫でる手が異様に冷たい気がする。
微笑から、魅入られたように目を離すことが出来ない。
彼女は名残惜しそうに一度ゆっくりと顔を撫でた後、そっと頬から手を離した。
その代わり、片手に持ったそれを持ち直す。
先端が僅かに黒く焦げた―――――。
「き、り、え?」
長い針。
「これで、ずっとずっと一緒ですよ」
にっこりと笑うと、今度は乱暴に髪を捕まれた。
無理やり顎を上向けられる。そこに膝を差し込まれた。
顔を固定される。小さな手の平がいっぱいに開かれると眼前に迫った。
無防備な瞼に指が当てられ、目薬をさすときのように、ぐっと押し上げられた。
むき出しになった眼球いっぱいに歪んだ風景が映る。
ぼやけた何かの先端がこちらを向いているのが見えた。
それを、上手く理解することができない。
ぐぐっと痛みすら覚えるほどに広げられた目に、冷たい空気が触れる。
唯一自由に動く眼球は、意識せずにぐるぐると動いた。
まるで何かから逃れようとするかのように。
瞼が閉じようと幾度も撥ねる。それを、鉄のように堅い指が邪魔をした。
秒針が時間を刻む音がゆっくりと耳に届く。
静止したような時間の中、とろけるような笑顔と共に、腕がゆっくりと動いた。
針先がクローズアップされていく。
どんどんぼやける点が着実に大きくなる。
呼吸が荒くなり、ぜーぜーという音が耳に痛い。
理解できない理解したくない。
彼女がそんなことをするはずがない。
けれど。
まさか。
「き、きりえ」
「優さん、私はね。優さんのことが」
針先が、そのまま。
「大好きです」
囁くような告白の言葉。それと一緒に、針の先端が眼球に触れた。
熱が一気に眼球を貫いた。ぐぐっと針先が水晶体に突き刺さり、抵抗感を伝える。
それから、プッツンというあっけない感触と共に、視界が焼けた。
ぐっと柔らかな中身に、音も無く針が進入する。
痛みに妙に粘性のある涙がどっと溢れ出た。
舌が喉に詰まる。顔の半分が硬直し、その上を涎のようにだらだらと涙が伝い落ちた。
まぶたがびくびくと痙攣する。手がゆっくりと針を残し、離れた。
幾度も瞼が閉じようとして、針に触る度、跳ね上がった。
眼球の中で切っ先が幾度もえぐるように震えた。
痛みに、何よりも眼球に物が刺さっている嫌悪感に全身が震える。
理解しがたい感覚に、胃が捻れ、胃液が口から溢れ出した。
体が勝手に暴れようとするのに、指の先一本動かせない。
眼球に刺さったままの針も抜けない。
眼球がむちゃくちゃに動き回り、刺さったままの針も一緒に動き回る。
あっ…あ、あっ。
開いたままの口は、言葉が詰まり、叫ぶことすら出来ない。
痙攣した舌が、胃液を乗せたまま、ぶるぶると震える。
涎がだらだらと口から零れ落ち、息を吸い込むことすら出来ない。
あっ……っ。
「そんなに、痛くないでしょう?」
その瞬間、やっと声が出た。
「ああああああああああああああああああああああああ」
絶叫する。やっとほとばしり出た悲鳴はとまりそうに無かった。
目が。目が。目が目が目が。
永久に視界を奪われたという事実が、今更頭に浸透する。
涙で濁った狭い視界の中では彼女が笑っている。
何も変わらない様子で、微笑んでいる。
眼球に針が刺さったまま泣いている自分を見ながら、表情一つ動かさない。
ひっと全身が縮まった。
殺されると思った。
このまま、殺されるのだと。
「殺さないで殺さないでくれ頼む、殺さないでくれ。
お願いだ殺さないで殺さないで死にたくない殺さないで」
ガクガクと全身が震え、口から止め処も無く言葉が溢れ出た。
死の恐怖だけが頭を真っ白に焼き尽くす。
何もかも、あっという間に消えうせた。
ただ痛みを放つ目を中心に、恐怖が全身を凍らせた。
痛い、痛い。痛いのはイヤだ。死にたくない。死にたくない。
無残に殺される。その恐怖がプライドも何もかもを奪い取る。
気がつけば、自分よりもとても小さな少女に哀願していた。
きりえは、きょとんとした顔をした。
しばらく、考え込むように黙った。その沈黙が恐ろしくて身を縮ませた。
数秒後、笑い声が響いた。
可愛らしい笑い声が、辺りを満たす。
それに、もう一度ひっと身がすくんだ。
けれども、優しい口調で彼女は言った。
「あっ…ふふっ…あは、ごめんなさい。
す、すみません急に、笑ったり……ふふっ、して。だって、……おかし、くって。
ごめんなさいふふっ。おかしいな。優さん。どうしてそう思ったりしたんですか?
何でそう思ったんですか? だ、大丈夫です。安心してください。
私は優さんを殺したりなんてしませんから」
嬉しそうな声だった。
日頃の声と変わらないその口調が、声が安心するどころか、更に恐怖を募らせた。
殺さないと言われても、暴力に対する恐怖が全身を凍らせる。
今の彼女は何時もの彼女じゃない。
彼女の皮を被った、別の生き物だった。そうとしか考えられない。
それ以外に考えてしまっては、頭がおかしくなりそうだった。
「私は、優さんのことが大好きですから。ただ、ずっと一緒にいたいだけですから」
そう言いながら、彼女は何時の間にか手に持っていた何かを動かした。
カチッ……カチッ……カチッ
機械的な音と共に、ひらりともう一度火が揺らめいた。
今度は至近距離で点されたそれが、ちりちりと肌を焦がす。
産毛が焼け付くような熱が、僅かな風に煽られては肌に触れる。
その上に、流れるような動きで針が翳された。
さっきと同じ光景が繰り返される。
もう一本は未だ目に刺さっている。
びくびくと激しく痙攣し、動き回る眼球の中心で共に回転している。
それなら……それは。
口付けをするような優しさで顎をとられる。
彼女はうっとりと微笑んでいた。
すっと針が構えられる。
それが、残された狭い視界の中で霞んで見えた。
両目が、潰れたら。
嫌だ…それは、それだけは嫌だ。
「嫌だ……嫌だ嫌だイヤだッ!それは、それだけは。
止めてくれ、きりえ。右目はせめて右目だけは。イヤだッ止めえええええええええ」
静止の声を、彼女は聞かなかった。
片目が潰されたせいで、逆に迫る針先がはっきりと見えた。
鋭い点が、容赦なく迫る。
どんどん大きくなる針先。
それが、眼球に触れ―――――――――――――――――
ぷつりと、いう音と共に世界は消えた。
残ったのは、最後に見た彼女の天使のような笑顔だけだった。